もうすぐ三月三日、”桃の節句” ですね。
毎年この時期になると、決まって奥さんとの話題に上がるのが。
我が家では、娘もとうに独立し ”雛飾り” でもないのですが、何だかこの時期が近づくと忘れ物を思い出すように心が痛むのです。
「お雛様出して!お雛様飾って!」と、しきりにねだる幼き娘の言葉に、毎年、「明日ね」「来週中にはね」果ては「田舎の雛祭りは4月3日だからね」などと言い訳を並べてはその場を凌ぎ続けたのですが---。
ある年気がついたのです。娘の「お雛様飾って!」の声が聞こえないことに。 あれ⁇
去年迄は、うるさいくらいまとわりついていたくせに、何故?と。
いざ求められなくなると寂しいもので、「今年はお雛様出さなくていいの?」と逆に水を向けてみても、娘の関心はもうそこにはなかったのです。
そうなんです。子供はいつまでも子供だと思っていたら違ったのです。勿論それは喜ばしいことではある反面、同時にとても寂しいことでもあるのです。親にとっては。
子供というものは緩やかな坂道を上るように成長するのではなく、階段を1ステップずつ踏み上がっていくように大人になるのだと、その時強く感じたものです。
共働きで忙しいやら、借家が狭いやら、人形の出し入れが面倒やら、そんな、どうにだってできることのために、大切な大切な大切なことに気づかずにいたことが、今となっては悔やまれるのです。
人生の一筋の流れの中では、例えば、遊びの時期、学びの時期、恋の時期、子育ての時期、仕事の時期、振り返りの時期等々、人それぞれのシーンが用意されていて、いつだって何度でもリトライできる事もあれば、一回限り”期間限定” のイベントもあるわけで、そこをしっかりと見極めなくてはいけないということです。
ちゃんと飾ってあげていればなぁー。
嗚呼、もう一度。「お雛様出して!お雛様飾って!」って、おねだりしてくれよー。
娘への罪滅ぼしの気持ちも込めて、毎年小規模に飾らせていただいています。
「何を今更」と ”お内裏様” のお叱りが聞こえてきそうですが---。